今日15年ぶりに同級生にあった。中学のころから20歳まで親友といえる存在であった彼との再会は、はかなくも悲しいものであった。旧友は見事な詐欺師に変貌していたのである。多種多様のビジネスの話を始めた彼は上から目線で、訳の解らない言葉を矢継ぎ早に繰り出しはじめた。さもそれが当たり前の事であるがごとく立て板に水の話し方だ。相手が解る解らないなど全くお構い無しと言うよりも、あえて相手がわからない言葉を使っているようだ。たまたま私の知っている事柄であったため、どのくらいでたらめであるかは私にとっては明白であったが、他の友達連中は全くの夢の中である。また、それを知っていなければ自分が世の中から取り残されている様な感覚にさえ陥っている状態だ。聞く人に無根拠な相槌を繰り返させて自分の話に酔いしれている姿は私から見ればおぞましく、みすぼらしい虚勢でしか無い。
この話術は明らかなる騙しのテクニックの典型である。まず第一に説明する意思など一切無い。相手に解ってもらうことが『説明』という言葉である。あえて相手の解らない言葉を使い、上から目線でこんな事を知っていなければレベルが低いと言わんばかりの卑屈感をあたえる。相手がまるで解らない事でも知っていなければならないと思わそうとしているに過ぎない。
本当に相手に説明する意思があれば『相手が解る事を第一に考え、相手が解り易い言葉を使い、解り易く話す。』その努力につきるはずである。このことを抜きに『説明』とは言えないのである。これが説明としては当たり前のことである。聞く人も解らないことを、解からなければいけないと思うことこそおかしいのだ。解らないことは、解らないとはっきりと聞き返すことが大切なのだ。
相手の説明に対する重要な判断基準を教えよう。『解り難い話をする人は、本当は自分自身が解っていないのである。もしくは相手に解らせたくないからである。』『解りやすく話をする人は、自分自身が良く解っているからであり、相手に解ってもらおうとしているからである。』この基準をしっかりと持っていれば、あえて質問をすべき人であるか、そうで無いかははっきり解るはずだ。解り難い話に無理やり聞き耳を立てたり、議論するのは時間の無駄である。説明すべき人間が、相手に解らせたいという意思を持っていないからだ。それはすでに説明とは言えない。また、その様な話しか出来ないのであればその人が説明するべき資格が無いと言える。説明とは自分の生き様をさらす事であり責任を持つべきである。大げさな話ではなく、最もその人の生き様を説明の内容で垣間見られるからである。
あえて相手に解り難い話をする必要が何故あるのか?その目的は何なのか?この様な話をする人のたいていは、相手が知っていることを答えると、直ぐ相手が解らない言葉を上からかぶせるように矢継ぎ早に繰り出してくる傾向がある。いわゆる煙に巻くという話術だ。この事で解ることは、相手に解られる事を恐れているのである。その全ての目的は、信じ込ませることにあるからだ。
人間は信じ込んでしまうと判断力を失いその人の言うこと全てを真実と捕らえてしまう。人間いったん信じ込ませてしまうと自分の都合の良い人間にする事が出来るからだ。これは明らかな洗脳、盲信である。この信じさせるテクニックこそ詐欺師の証である。
自分の命を汚さないためにも全ての人は肝に銘じて欲しい。人は人に役立つ仕事をしなくてはならない。人に説明をすると言う事は、相手に解ってもらえるように努力する事こそ真実である。 相手に信じさせようと話をすることは、相手を騙すことと全く同じ事である。
この筋トレ界でも上記のような多くの洗脳、盲信指導が後を立たないの現実である。しかし、少なくともこのサイトを通して筋トレを学び、人に貢献しようと考えている人はこのような間違いは絶対にしないで欲しい。知識は記憶や記述ではない。自分の明らかに解る範囲での検証による判断である。その中で相手の解る言葉を使い、相手の解る様に指導して欲しいと心よりお願いしたい。
筋トレの非常識と筋トレの常識
貴方は間違いを犯していないだろうか?上記の図は筋トレを真剣に考えない指導者が誤って垂れ流した情報と真実の筋トレの情報を比較している。ベンチプレスを例に挙げているものであるが、トレーニングのフィニッシュラインをトップと考えているか、ボトムと考えているかで筋トレ効果は雲泥の差となるのである。
『トレーニングは必ずフルレンジでボトムまでしっかりと降ろさなければならない』などともっともらしくいう人がいるが、これほど無根拠きわまりないことはない。実際フルレンジでのボトム位置はその動作中で最も筋力の弱い位置であり、その位置で可動させられなくなった状態でセットを終了しているとしたら実際の筋力の殆どが余った状態でセットを終了している事になる。その証拠にフルレンジのボトム位置まで降ろさなければまだまだ可動させられるからだ。『苦しく辛く効率が悪い』と三拍子揃った方法とはまさにこのことである。専門者がもしもこの様な事を提唱しているとすれば人間性を疑わざるを得ない。
実際にはボトム位置などは無理の無いところで良い。無理なところまで降ろして怪我にわざわざ近づく必要など無意味この上ない。余裕のあるボトム位置までおろして、しっかりとトップまで持っていくことが大切である。ボトムは余裕の位置、トップ位置をフィニッシュ位置と決めることである。どの様な位置に降ろそうが、トップで可動させられなくなるまで行えればそのセットのオールアウトへ自然に到達するのである。
このことに気づかずにボトムをフィニッシュ位置にしてしまっている人は、本当のオールアウトの経験は無い。純粋に誰に教わる事無く筋トレをしている人にとっては当たり前の事なのである。初心者は『降ろす事よりも上げること』を自然に考える。初心者は無根拠な情報に犯されていないため意外と殆どの人がこの時期だけオールアウトを経験している。
この様に正しく自然なフィニッシュ位置を理解するだけで安全で効果的な筋トレに戻すことができるのである。反復過程で次第に筋力が低下し、最大筋力位置まで可動域が狭くなってセットを終えることは当たり前以外に言葉が無い。しかし、この当たり前の原理を身につけて全ての筋トレに当てはめれば、筋トレ効果は間違いなく飛躍的に上がる。筋肉の最大収縮位置に持ってくることだけを考えればよいのだ。可動域なんて関係ない、とりあえずそこにもって来れなくなるまで、持ってくる方法を駆使して終われば良いのである。
一番筋力の弱いところで出来なくなって終了とはあまりにも馬鹿げている。どちらが筋力を発揮させ、筋力を使い切っているのかは議論の余地など無いのである。言い換えれば『ボトムでの反復限界は作られた嘘の限界であり、トップでの反復限界は真実の限界』といえるのである。
こんな当たり前の事を理解できれば、『スローなフルレンジが効率が良い』などとは恥ずかしくていえるはずが無い。筋肉の可動は自然に次第に狭くなる、呼吸も限界近づくにつれ苦しくなる。なのにスローなフルレンジの同一可動がどうして限界なのだろう?こんな当たり前の事すら理解していない人間が、目に見えない理屈をこねた馬鹿げた方法の方が凄いといっても、そこに真実などあるはずが無い。本当に筋力の向上を考えていたのであれば、そんな方法を見つける前に気づくべき事柄はもっと他に沢山あったはずである。今の筋トレ界を言葉で表すとすれば、『真実を提唱している人は真実に基いているからであり、真実を提唱していない人は真実に基いていないからである。』
リアル筋力とは筋力の真実を追求して解った筋力の真実を表す言葉である。
遅筋?速筋?
ちまたの筋肉の科学では遅い筋肉と早い筋肉があるらしい???
物理とは証明確立されたものである。その現実から言えば力は速度に比例して変換できるエネルギーでしかない。速度に変換できない力は地上には存在しないのだ。そうでなければエネルギーとは呼べないのである。かりに全く違う筋肉の持ち主同士が同一負荷を持ち上げているときに、急にその負荷が無くなったとしたら、負荷の掛かっていた骨格の動きは筋肉の質とは関係なく、全く同じ速度で跳ね上がるのである。これがエネルギーというものである。従って筋肉の速度はその筋力の大きさでしかない。全く疑う余地の無い当たり前の事だ。
にもかかわらず筋トレの世界では速度の遅い筋肉と、速度の速い筋肉は違う?という定説がある。その上に速度を上げる筋トレと筋力を上げるための方法すら違うとなるのである。物事の根本を見れば力と速度は同じものなのにこの様な根もはも無いバカなことを堂々と公にまかり通るような筋トレ界は見直さなくてはならない。
現在多くの奇異なトレーニングが横行していると思っているのは私だけだろうか?その様なトレーニング方法の説明中の多くが、目で見たり感じたり出来ない脳による作用だと、まるで真実のように語られている。その中でよく出てくる言葉が『脳による勘違い』という事柄である。勘違いという事は真実でないという言葉であり、その事柄自体が勘違いでしかない。
脳にどの様に勘違いをさせようが行動が伴わない限り現実に形を変える事などあるはずが無い。夢で食事をしても決してお腹は満たされないし、仕事をしたと勘違いしても仕事は進まない。
勘違いは現実では無い思い込みでしかない。勘違いをして筋肉が付いたり筋力が向上出来るのであれば、勘違いをしたらお金持ちにもなれるし、身長すら伸びるはずである。何故その様な当たり前の事を現実や真実につなげて説明が出来るのかが解らない。それ以上にその説明を真実と受け止められる事自体バカげている。
進化の過程で最も大切な事は必要性と行動である。その必要性に対して伴う行動と努力こそが現実や形を変えられる唯一の手段である。言い換えれば脳と(思い)と行動を合致させることである。現実の行動の伴わない勘違いを脳に植えつけたからたからといってどうなるのだろう?必要性に対する行動から効率的な現実の方法が生み出され形となるのである。行動の伴わない勘違いは単に勘違いでしかない。
仕事においても出来ると思い込んでいる人は実際には何も出来ない、単に勘違いしているからだ。自分なんてたいしたことは出来ないと思っている人は出来るものである。それは常に出来るようにならなければいけないという必要性を持ち続けているから、行動と努力が伴うのである。
勘違いは努力と行動を嫌う人が好む代表的な要素といえる。重い物を持った気になる、より重く感じるようにする、脳が大きな筋力を発揮していると勘違いさせる等。そんな事で現実の姿形を変えられると思い込む事を、虫の良い考えと言うのである。
この様な現実に目を向けない考えを世の中に、ためらい無く垂れ流すのは人間としての資質を疑う。努力と工夫を忘れた人間の考えと言わざるを得ない。
やらないでやった気になって現実の結果を得られるなどとは、あまりにも短絡的で馬鹿げた非現実的な理屈でしかない。
上記の図のように筋肉が実際に筋力を発揮する時に収縮しているとはいえません。実際には膨張と硬直状態を作り出しその反発が筋力といえます。。何もかもを鵜呑みの記憶によるものを知識と勘違いしないようにしましょう。皆さん何事においても真実の追究が無くては発展など望めません。自分が解っているのかむやみに信じているのかをしっかりと判断しなければなりません。
未だに筋トレ界においてはスローなフルレンジを基本動作にする為に工作をしている人達がいます。人体における骨格筋を考えた場合その様な動きが基本となるはずが無いのです。骨格筋は身体を動かす為にあらゆる角度で、あらゆる位置についています。そのあらゆる位置の骨格筋に対して、一定の速度、一定の動作を基本にする事自体が全くの無根拠この上ないものである事は全てのスポーツにおける運動動作で証明されています。そしてそんな現実の結果を求めるスポーツアスリート達がスローなフルレンジを基本に筋トレを行っていないし、もし行っている人がいれば結果は伴わず効果が出るどころか成績は明らかに低下します。
何故ならば、スポーツにおける運動形態がスローなフルレンジ動作など存在しないからです。それは同時に人間の筋力の発揮形態とも全く違うものなのです。日常動作の中でスローなフルレンジで動くことなどあるでしょうか?もしその様に動く事があれば、間接や骨格筋における無理を強いることになります。特に筋力の低い高齢者や、怪我によるリハビリ訓練などでスローなフルレンジ動作は著しく身体部位に負担をかけかえって悪くしてしまいます。
骨格筋が間接軸のテコ作用で動いている限り、屈筋は屈折位で筋力が発揮でき、伸筋は伸展位で筋力を発揮させられる様になっていることは明白な真実です。従って屈筋は伸展位での筋力の発揮は無理になり、伸筋は屈折位での筋力の発揮が無理になります。当然それらの筋力の発揮の無理な位置での大きな負荷は怪我を誘発するだけで、大きな筋力の発揮は起せません。これは一間接上の中で起こる当たり前の筋力の増減です。では何故同一速度のスローで同一加重をフルレンジで行う事が出来るのでしょう。少なくともフリーウエイトにおいては物理的に矛盾以外なく、それを基本動作に考える事など本末転倒としか言えないのです。
上記の事柄は私個人の意見ではありません、骨格筋における真実です。
筋トレが骨格筋の構造を無視した動作が基本となるような筋トレ界であれば、いつか真実を歪曲する盲信者のカルト集団と何ら変わらないものに成り下がってしまいます。己の間違いを正し、利害のために真実を覆い隠すような行為は人の上に立つ人間のする事ではありません。
私の講習会に是非真実を見に来てください。大した事は出来ませんが、真実を見せることだけは出来ます。そして真実と自分の思いのギャップがどのくらいあるのかをご自分で感じてください。
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